弘法大師御正当

5月5日(土)、弘法大師さまの命日の前日に
弘法大師御正当の行事が執り行われました。
ご参加いただきました皆様、ありがとうございました。

これにちなんで、弘法大師さまの生涯を簡単にご紹介したいと思います。

空海は讃岐(現・香川県)の郡司の家に生まれました。郡司とは地方の役人のことで、元々それなりの身分があったことになります。そのおかげか、早いうちに京へ出ることができ、母方の親戚から論語他儒学を教わるなど、比較的恵まれた環境にいました。

世俗の学問に限界を感じた若き日の空海は、同時に信仰心も高め、山に入って修行をしながら勉学に励んでいたといわれています。

30歳のとき空海は遣唐使に随行する留学層の一員として選ばれました。

他には既に一定の地位を築いていた最澄や、入唐後日本人唯一の「三蔵法師」になった霊仙(りょうせん)といった高僧がいました。

空海が持ち帰ったものは、経典や仏具などはもちろん、土木技術や薬学、文学など極めて多岐に渡ります。

これは当人も満足していたようで、帰国時の「虚しく往きて実ちて帰る」という発言からも伺えます。

数年して京の都に戻った空海は、持ち帰ってきたものを日本の衆生に役立てるべく、八面六臂の活躍をします。

朝廷の政争に際しては祈祷をし、唐で学んだ文化については書き表し、高野山を賜っては金剛峰寺の元を作り、故郷・讃岐では治水工事を行うなど、世の中の迷える人、苦しむ人の救済と、社会の浄化につくしました。

そして帰国から28年後、空海は、高野山奥の院で仏の世界に旅立ちました。

生きながら仏となり、現在も修行を続けていると言われています。

現在の高野山では、一日に二度食事が運ばれ、毎年3月21日には衣服を交換する儀式が行われています。